ハルキウ (Kharkiv)
ハリコフ(Харьков ハーリカフ )の名でも知られる.
17世紀中頃にウクライナ・コサックによって建設された. ロシア帝国の要塞が築かれ、南部の軍事的拠点とされていた. 19世紀以降、工業都市として急速に発展した. そのため、ロシア人の入植が大規模に行われ、また産業の発展に伴いユダヤ人人口も増加した.
1917年1月6日から1934年6月24日まで、ハルキウはウクライナにおけるボリシェヴィキ・ソビエト勢力の拠点とされ 、同派のウクライナ人民共和国、ウクライナ社会主義ソビエト共和国、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の首都となった. これは、ロシア革命後にウクライナ民族主義の盛んであったキエフを避けてのことであったとされる. また、ロシア人やユダヤ人を中心とする労働者人口が多かったこと、都市が十分に発達していたことなどが、都市民に支持基盤を置くボリシェヴィキにとって都合のよい点であった.
第二次世界大戦(独ソ戦)では、1941年10月24日までにナチス・ドイツ軍に占領された が、1943年8月23日にソ連軍が奪回した. ドイツ軍の占領下で何万人もの住民が虐殺されたといわれる.
第二次世界大戦後は、ソビエト連邦に抑留された日本人約4000人がハルキウ一帯に送られ、道路の建設や住宅の補修に当たった.
1805年に開設されたハルキウ大学があり、文化・教育の中心地でもある. 2004年には建都350年が祝われた.
2012年にはサッカー欧州選手権が開催された.
2014年4月7日、親ロシア派グループが「ハリコフ人民共和国」の建国を宣言して庁舎を占拠する事件が発生した. しかし翌日にはウクライナ政府により奪還され70人以上が逮捕された. また地元テレビ局も親ロシア派のデモ隊に一時占拠された. 同月27日には、親ロシア派と反ロシア派の衝突により14人が負傷した. また28日には、地域党に所属する市長が銃撃され重傷を負う事件が発生した.